スポンサーリンク

奈良の都にペルシャ人がいた?ペルシャって何処?どんな人達?

とても興味深い事実が明らかになりました。奈良市の平城京跡から出土した木簡にペルシャ人を意味する「波斯」という名字が書かれていたことが奈良文化財研究所の調査であきらかになりました。
国内でペルシャ人の名前を印した木簡が発見されたの初めてで、奈良時代の日本の国際性を裏付ける成果となります。
この木簡が記された765年の日本とは?どんな役職をしていたのか?ペルシャ人ってどんな人達なの?

 

日本はとても不思議な国。この記事が話題にする時代は奈良時代ですが、その頃の文献はほとんど残っていません。

一般的に最古の文献と言われるのは「古事記」ですが、それよりも前に聖徳太子の「法華義疏」があるとされています。

しかし、一方で言葉としての連続性については、全ての人がなんとなく感じていますよね。

それこそ万葉の時代から現代の日本まで、少しずつの変遷はあるものの、詩を味わうことも出来ます。

それでも、明治から現代の日本に変わる時は大変でした。旧仮名遣いから、現代の日本語へ。

以下の記事は、そんな変化について「ずつ」と「づつ」と言う例を使ってまとめています。

04a014122a73af49f0809bfeb3b2c68e 160x90 - 奈良の都にペルシャ人がいた?ペルシャって何処?どんな人達?
「づつ」と「ずつ」はどっちが正しい? 「少しずつ」と「少しづつ」の使い分け
専門家たちでも困ってしまうような違いというのがありますよね。「ずつ」と「づつ」もそんなものの一つです。「どちらが正しいの?」と考えがちですが、言葉としてはどっちでも良いそうなんです。少しいい加減な感じですが、それには歴史的な経緯があるんです...

奈良の都の時代はまだ「源氏物語」や「枕草子」などが生まれる前です。残っている文字情報も木簡がほとんど。

それでも何故かこの時代の延長線上に我々の暮らしがあると疑わないですよね。

歴史の連続性では世界屈指の国である日本。その古代について見ていきましょう。

スポンサーリンク

765年は平城京の時代。孝謙天皇と道鏡の頃。


この頃の日本はとても微妙な時代だと思います。実際の所、木簡を見ても分かる通り紙の文書はほとんどありません。
大宝律令が制定されたのが701年でその時から「日本」が正式な名称になったと言われています。
最終的に798年に平安京に遷都するまで遷都を繰り返すなど政治的に安定しない時代でした。

国内でペルシャ人の名前を記した出土遺物が確認されたのは初めてで、奈良時代の日本の国際性を裏付ける成果となる。

奈良時代の国際性については議論の余地がありますが私は言われているより国際的だと思っています。
正倉院の宝物にある瑠璃碗はペルシャの物と言われ今までは、中国経由で入って来たと言われてきました。
しかし人も入って来ているなら少し事情が異なると思います。
人がその経験とスキルで役人として雇われていたわけで、もちろん情報も付随します。
「員外」というのが気になりますね。701年に大宝律令が制定され、日本でも四等官制が始まりました。
もちろん「員外」ですから、通常の役職の範囲の外なのではないかと思いますが・・

木簡の具体的な内容は役人を養成する「大学寮」でのペルシャ人役人の宿直に関する勤務記録なのだそうです。

表側の上部に「大学寮解 申宿直官人事」、下部に、定員外の特別枠で任じられた役人「員外大属(いんがいだいさかん)」という役職名、中国語でペルシャを表す「波斯(はし)」と同じ読み・意味の「破斯」という名字を持つ「破斯清通」という人名と、「天平神護元年(765年)」という年号が書かれていた。

なーんか溶け込んるね。
どんな交流がなされていたのか知りたいですね。

スポンサーリンク

ペルシャ人ってどんな人達?美人が多い?


ペルシャ人の意味は時代によって随分変化しています。広義には、歴史的なイラン地域および中央アジア方面に住み、主にペルシア語を語る人びとのことを漠然と指すそうです。
狭義にはイラン・イスラーム共和国籍を有する人(イラン人)のうち、もっぱら定住生活をとり、ペルシア語を主に語る集団を指す民族名称「ファールスィー」の訳語なのだそうです。

広義のペルシア人は地理的・文化的な概念としての「ペルシア」と結び付けられた民族名称であるということができます。
一般的には現在のイランに由来してペルシャ語を話す人達ということが出来るかと思いますが、イランは大陸国家ですから、自然に人が入って来ます。
ですからイランの中のペルシャ人、つまりイラン民族を指す「ファールスィー」(ファールスの人という意味)に属している人は現在のイランの人口のうち約50%〜70%なのだそうです。

よく聞くアーリア(アイルヤ)は「高貴な人」という彼らの自称が始まりだそうです。
その後サーサーン朝期以降はイラン高原を中心とする地域は「アーリア人の土地」という意味の「エーラーン」あるいは「エーラーンシャフル」の名で呼ばれるようになったそうです。
その「エーラーン」が近世ペルシア語では「イーラーン」となったわけですね。
またそこからアーリア人という言葉も生まれました。
ヨーロッパなどで使われる「アーリア人」は少し内容的にずれているのを感じますね。

ペルシャ人には美人が多い?これは個人差があると思います。彼らのようなはっきりした顔立ちが好きな人は美人ぞろいに見えるでしょう。
一方ずっと顔や体をイスラムの民族衣装で隠しているためそれほど洗練されていないという指摘も。
ミスユニバースにイラン人の女性が選ばれているので、標準以上だと思います。

スポンサーリンク

古代ペルシャと日本の交流に思いを馳せて。

古代のペルシャ(ササン朝ペルシャなど)と日本の交流はロマンがありますね。
現在のイランと重なるかと言われればそうじゃないんですが。古代ペルシャは寛容なところも多い大国でしたが、現在のイランはとても厳しい戒律の国です。
そこに住んでいる人はまじめで親切で優しく、家庭を大事にする人が多いそうです。
政治的には難しいことが多いですが、古代からの縁で仲良くしたいですね。

コメント

error:Content is protected !!