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三笠宮様御薨去。津野田事件でクーデター賛同の過去。東条暗殺を容認できず翻意する。赤い宮様とは。

昭和天皇の14歳年下の弟で天皇陛下の叔父にあたる三笠宮崇仁様が27日、亡くなられました。
記録に残る貴族の中で最高齢の100歳でした。
ご本人も激動の昭和を体現する様な方でした。
そんなことを見ていきましょう。

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三笠宮様御薨去。津野田事件でクーデター賛同の過去。東条暗殺を容認できず翻意する。赤い宮様とは。

大正天皇の第4皇男子で、天皇陛下の叔父にあたる三笠宮崇仁親王殿下が薨去されました。
100歳で、皇位継承順位は第5位であられました。
三笠宮様の薨去により、皇室は19方、皇位継承資格者は4方となりました。

三笠宮様は今年5月に急性肺炎と診断され聖路加国際病院に入院されました。
その後、症状は治ったものの緩やかに心臓の機能が低下していき、集中治療室と一般病室を行き来していましたが、27日午前8時34分に亡くなられました。
三笠宮様は2012年に、96歳で心臓の手術を受けた後は大きな病気もなく過ごされていました。
今年新年の一般参賀では宮殿のベランダに立ち元気な姿を見せられました。
また6月には、天皇皇后両陛下が病院を見舞われた際には、三笠宮様は快活に話されていたといいます。

三笠宮様のはどのような方だったのでしょうか、見てみましょう。

三笠宮崇仁親王(みかさのみやたかひとしんのう)

続柄 大正天皇第四皇男子
称号 澄宮
身位 親王
敬称 殿下
お印 若杉
出生 1915年12月2日 日本 東京府
死去 2016年10月27日(満100歳没) 日本 東京都
配偶者 親王妃百合子(高木百合子)
子女 近衛甯子(甯子内親王)
寬仁親王
桂宮宜仁親王
千容子(容子内親王)
高円宮憲仁親王

父親 大正天皇
母親 貞明皇后
役職 陸軍少佐、貴族院議員(1935年12月1日 – 1946年5月23日)、東京芸術大学名誉客員教授、東京女子大学講師、中近東文化センター名誉総裁、日本赤十字社名誉副総裁、他多数

1915年(大正4年)12月2日、大正天皇と貞明皇后の第四皇男子として誕生。
3人の兄は皇太子の王子として生まれて早くから「皇孫御殿」に引き取られて養育されましたが、生まれながらの皇子である崇仁親王は、末子を手元で育てたいという両親の意向が貫かれ、御所で育てられました。
学習院初等科、中等科を経て、1936年(昭和11年)に陸軍士官学校(第48期、兵科:騎兵、同期には衣笠駿雄、成松長正ほか)を卒業。
在学中の1935年(昭和10年)の成年式に伴い、三笠宮の宮号を賜り、同時に大勲位に叙せられまいした。
陸軍騎兵学校を経て、士官候補生時代に指定された原隊である騎兵15連隊で小隊長、続いて中隊長を務めのちに陸軍大学校(第55期)を卒業しました。
1935年(昭和10年)に成人したことに伴い貴族院議員となりました。
活動実績はあまりないが、1946年(昭和21年)までの11年間の間、議員を務めました。

※皇太子と皇太子以外の貴族議員は満20歳になると同時に自動的に貴族院議員となることや、青年皇族は原則として軍人であることから、皇族議員が議事に加わることは稀であったため、活動実績が無いことは皇族議員として一般的です。

1941年(昭和16年)10月22日、子爵高木正得の次女百合子と結婚。寛仁親王ら三男二女をもうけられました。

太平洋戦争開戦後、陸軍大尉時代の1943年(昭和18年)1月から翌1944年(昭和19年)1月まで、コードネーム「若杉」(姓は印にちなんで作られた)として南京の支那派遣軍総司令部に勤務しました。
三笠宮は「軍は中国との戦争が長引き戦闘が泥沼状態になっており、軍記がみだれているものが一部いることを深く反省するべきである」と総司令官にいい、対中政策のブレーキ役となりました。
総司令部は着任に際して舞台内に通達を出し、勤務中の待遇及び、食堂での食事の際の礼遇について周知させています。
若杉の身分は秘匿されたため、部内にはかなり後期まで若杉が三笠宮であることを知らない者も多くいました。
支那派遣軍勤務中には、中国ごのエキスパートであった通訳の木村辰男から中国語と中国事情を学んでいます。
その後大本営参謀に転出されています。
帰国後、戦争終結を模索し、同僚の津野田知重陸軍少佐らと共に東條内閣打倒のクーデター計画を立てるが、東條英樹暗殺、主戦派数百名大量粛清などの過激な内容に躊躇し、自ら憲兵隊に通報します。
津野田は逮捕され、クーデターは未遂に終わりました。
事件への関与は明白であったが不問に付され、1944年(昭和19年)9月、願い出て陸軍機甲本部付に異動します。
津野田はじめ他の将校も軽い処分で済まされました。
こうした経緯があったためか、昭和天皇に対面を願い出た時には「何を言うつもりなのかな」と天皇が不安がったとも言われます。
終戦後の階級は陸軍少佐、航空総軍参謀でした。
1945年(昭和20年)8月12日に皇族会議が召集されて、昭和天皇が終戦の決意を語り、三笠宮は「忠実に実行したい」と語りました。
8月13日に阿南惟幾陸軍大臣が昭和天皇に徹底抗戦に翻心させようと三笠宮に説得を願い出たが、「「陸軍は陛下の大御心に反する」と断わり、阿南を叱責したと言われています。

東条英機暗殺計画(津野田事件)について

津野田は親交のあった柔道家の牛島辰熊と木村政彦と共に自らが計画した東條英機暗殺及び、東條内閣打倒計画を行おうとしました。
これには山形県で隠棲していた石原莞爾も大いに賛同しています。
計画は、東條が乗っているオープンカーに向けて、皇居二重橋前の松の樹上から青酸ガス爆弾を投げ付けて東條を暗殺するというものでした。
しかし、内閣打倒までは賛同していた三笠宮崇仁親王に対して津野田が計画の細部を打ち明けたところ、東條の暗殺までは容認できなかった三笠宮が憲兵隊に通報した為に津野田と牛島は逮捕されました。
両名は軍法会議によって裁かれたが、結審が東條内閣崩壊後である1945年(昭和20年)3月であった為、津野田は陸軍から免官のうえ、禁固5年、執行猶予2年で釈放となりました。
牛島は不起訴。石原は軍法会議に召喚されて、始末書の提出のみで終わったそうです。

個人的な感想ですが、軍の乱暴を止めたいがために自分が乱暴者になってしまう。
そんな事が嫌だったのでしょう。
善を行うために悪を成すのではなく、善は善であるこいうことでしょうか。
三笠宮様のこうした考えはずっとそのまま続いていきます。
世界大戦という異常心理が常態化する中で、あまりにも常識的な方でした。
それについて意見は色々あると思います。

戦後の活動について

戦後は3人の兄達とは年齢も離れており、皇位継承の可能性も低かったことから、かなり自由な立場で行動しました。
1947年(昭和22年)4月に東京大学文学部の研究生となり、歴史学を学びました。(専攻はオリエント史)
1955年(昭和30年)には東京女子大学で講師として教育に当たったほか、青山学院大学、専修大学、天理大学、拓殖大学でも教壇に立ち日本オリエント学会の会長も務めました。
1979年(昭和54年)出光佐三(出光興産創立者)の協力を得て東京都三鷹市に中近東文化センターを設立しました。同センター総裁を長く務めています。
1991年(平成3年)にはフランスの「碑文・文芸アカデミー」の外国人会員に就任。
また、1994年(平成6年)6月にはロンドン大学東洋アフリカ研究学院の名誉会員に就任しています。

このように幅広く活躍され、民間と皇族、日本と外国を結びつける活動をされていた記憶があります。

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三笠宮様御薨去。津野田事件でクーデター賛同の過去。東条暗殺を容認できず翻意する。赤い宮様とは。

戦時中から、なんとか戦争終結に結びつけようとする活動をしていた方という印象があります。
そのため戦後の活動も独特でした。
紀元節の復活を阻止しようとした活動もその一つです。

※1950年代後半から紀元節の復活への動きが具体的なものになってくると、考古学者・歴史学者としての立場から、神武天皇の即位は神話であり史実ではないとして強く批判し、積極的に復活反対の論陣を張りました。

編著である、「日本のあけぼの」はこのときに刊行されたものです。このため「赤い宮様」ともてはやされました。

一方で復活を推進する人々は三笠宮を激しく非難しました。
なかでも里見岸雄や野依秀市は、三笠宮を「無責任」「非常識」「左翼」と罵倒し、皇族の身分を離れることを要求する著作を公表しています。
右翼団体の構成員が宮邸に押しかけて面会を強要した事件も起きています。

単純に歴史としての間違いだけではなく、「あの時代」へ逆戻りするのは嫌だったのでしょうね。

具体的に戦争を終結させた昭和天皇だけではなく、三笠宮様のような方がいなければ戦争を終わらせるのは難しかったでしょう。

ご冥福をお祈り致します。

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