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片桐且元、裏切り者と呼ばれて。ドラマ真田丸の重要人物。家康に翻弄され忠臣になれず。

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ドラマ真田丸が佳境を迎えていますね。いつもの戦国時代を舞台にしたドラマならここからが佳境なんて事は無いですね。
この後豊臣が滅ぶことは誰でも知っている訳ですが、その過程の中で誰がどんな役割を演じるのか興味が絶えません。
特に片桐且元は忠臣として秀頼に仕えており、和睦を進言するなど何とか豊臣家を存続させようと努力したと言われています。
それらの「お話」は本当の事なのか、それとも後世に書かれた偽物か。ちょっと見てみましょう。

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片桐且元、裏切り者と呼ばれて。ドラマ真田丸の重要人物。家康に翻弄され忠臣になれず。

真田丸を見ると普通の戦国ものではあまり描かれない大阪夏の陣、冬の陣を詳しく見ることができて興味深いですよね。
たいがい、豊臣側のだらしのなさが描かれていることが多いのですが、家康のえげつなさについてもっと教えるべきでは。

片桐且元はもともと浅井長政に仕えていたのですが、織田信長に滅ぼされ、豊臣に仕官することになります。
この時代は安定した関係を築くのが難しく、片桐且元も時代に流された人と言えるのかもしれません。
まず、ネットでの反応を見てみましょう。

以下は片桐且元のプロフィールになります。

片桐且元(かたぎり かつもと)

時代:: 安土桃山時代 – 江戸時代初頭
生誕:: 弘治2年(1556年)
死没:: 元和元年5月28日(1615年6月24日)
改名:: 市正(幼名)、片桐直盛(直倫)→且盛→且元
別名:: 直盛、直倫、且盛、通称:助佐または助作
戒名:: 顕孝院殿東市令三英元居士
墓所::京都府京都市の大徳寺、静岡県静岡市の誓願寺
官位:: 従五位下・東市正
主君:: 浅井長政→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康
藩::大和竜田藩主
氏族::片桐氏(豊臣贈姓)
父母:: 父:片桐直貞、母:不詳
兄弟:: 且元、貞隆
妻 ::正室:片桐半右衛門の娘
子 采::女、孝利、為元、成瀬之成継室、小出某室、畠山政信正室

上記の通り、且元は浅井長政の配下の国人領主・片桐直貞の長男として、弘治2年(1556年)に生まれました。母の身元は不詳。
戦国大名化した浅井氏に仕えるようになったのは、父、直貞の代からだといいます。
元亀元年(1570年)から天正元年(1573年)9月1日にかけての織田信長による浅井長政への攻撃で、浅井氏の本拠地である小谷城は落城しました。

この時、且元は17歳。一貫して浅井方として戦い、そして幼き頃の、茶々、初、江の浅井三姉妹や大野治長兄弟らと共に落城を経験したものと考えられます。
片桐且元が家督を継いだ時期は定かではありません。

豊臣秀吉の直参衆となる

信長が滅ぼした浅井氏に代わり、秀吉は長浜城主及び、北近江3郡の領主となり、多くの人材を募っていました。
且元は天正2年(1574年)以降から天正7年(1579年)までの間に同じく近江生まれの石田正澄・三成兄弟と同じように秀吉に仕官したと思われ、毛利輝元に対する中国攻めにも従軍していたと考えられています。

天正11年(1583年)5月、信長の死後に秀吉と対立した柴田勝家との賤ケ岳戦いで、福島正則や加藤清正らとともに活躍し、一番槍の功を認められて賤ケ岳の七本槍の一人と数えられました。
天正12年(1584年)6月、小牧・長久手の戦いに従軍。陣立書から他の七本槍と共に馬廻衆として150人を率いて本陣を守っていたと考えられています。

このあたりから前線で槍を持って戦う姿から、どちらかというと政務を扱う行政官として働くようになります。

天正14年(1586年)7月1日、従五位下東市正(ひがしのいちのかみ)に任官され、この時に豊臣姓を下賜されました。

以後奉行として活躍し、道作奉行としての宿泊地や街道整備などの兵站に関わる仕事をするようになります。

また、秀吉の支配地域の拡大に伴い、各地で小堀正次、浅野長政、福島正則などと共に、検地奉行に携わるようになります。

天正15年(1587年)の九州討伐に従軍し、軍船の調達を担当しています。
天正18年(1590年)の小田原征伐に従軍し、脇坂安治や徳川家臣と共に小田原城の接収に立会い、早川長政と共に鎌倉の鶴岡八幡宮の修復造営手記と所領安堵及び検地を行いました。

秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)では弟・貞隆と共に出征しました。宮城豊盛と共に先発して街道の整備などを行いました。
文禄2年(1593年)講和に向けた休戦により9月から10月に帰国しました。

慶長3年(1598年)3月15日の醍醐の花見では三の丸殿に随従。御輿添頭(おこしぞえがしら)にあたりました。
同年(1598年)8月15日小出秀政らとともに秀頼の傅役(輔佐役)5名の一人として指定され、大阪城番の城詰めとして近侍することになります。

関ケ原の戦いで西軍が敗戦してから、豊臣と徳川の間で且元の立場がねじれていきます。
ここから色々な細かな逸話などがありますが、後世に書き直したものも多くあまりあてになりません。
いい話にしてしまっているせいで本当のそこにいる人たちの息吹が伝わってこないように感じます。

いい話も、呆れる話もありますがどれが本当の姿なのかわからないのは、家康の狙いでしょうか。

慶長4年(1599年)1月10日、豊臣秀頼が五大老・五奉行に伴われて伏見城から大阪城に遷った際、自邸の無い徳川家康は伏見城に戻るまで、且元の屋敷に2泊しています。
以後2人は連絡を取り合うようになります。

慶長5年(1600年)9月15日、関ケ原の戦いでは文治派奉行衆を中心とした石田三成方(西軍)に付き、秀政、頼明、弟の貞隆などの旗本も加わる大津城の戦いに増田長盛と同じく家臣を派遣しましたが、敗戦してしまいます。

武断派武将らを中心に支持を得た家康方・東軍勝利の後は長女を家康の人質にさし出し、豊臣と徳川両家の調整に奔走することになります。

以降は、家康の決める政治を幼い秀頼の代行として承認し、協力する立場となりました。
慶長9年(1604年)の秀吉7回忌と同15年(1610年)の13回忌の大祭(臨時祭礼)では総奉行を務めました。
また朝廷との橋渡しなどを務めました。
慶長10年(1605年)頃からは、家康から豊臣家直轄地の摂津国・河内国・和泉国・小豆島を管轄する国奉行のような立場に任じられます。

慶長16年(1611年)駿府城を本居としていた家康が4年ぶりに上洛。
これにより前に家康から秀頼に二条城での会見要請があり、秀頼の母・淀殿は「家康から大阪城へ来るべき」と難を示すが、且元が「関東と不和となり合戦起らんこと必定」と上洛を説得して会見を実現させました。
その際に吉凶を占ったくじで大凶を引くと、吉に書き直させたと言います。

西軍が敗北して長女を人質に差し出してから且元は家康の意向を大坂方に伝える役目をきちんとこなしています。
その一方で、寺社奉行として豊臣公儀の仕事であった寺院復興事業なども取り組んでいきます。
そしてその事が問題につながっていきます。

方広寺鐘銘事件

色々ありましたが、結局存続している豊臣家。家康はかなり焦っていたはずです。
このあたりからゴリ押しが目立って来るのは家康の年齢的なものでしょうか?
自分の代で天下を取りたいというのが見え見えですよね。

そんな時に起きた、いや、起こしたのが方広寺事件でした。

慶長19年(1614年)3月頃には再建開始から14年目の方広寺大仏殿がほぼ完成し、秀頼の名において全国から鋳物師を集めます。
銘文を南禅寺長老の文英清韓に選定させていた梵鐘も4月には完成し、奉行代表として「片桐東市正豊臣且元」の名も刻まれています。

慶長19年(1614年)5月、家康は且元に対して方広寺の供養の導師に真言宗仁和寺門跡の覚深法親王を指名します。
慶長19年(1614年)7月、後水尾天皇より大仏開眼法要を天台宗妙法院門跡の常胤法親王を指名する勅命が下されます。

家康は開眼法要を8月3日、堂法要日取りを秀吉の命日である8月18日という指示を出しました。
18日は、秀吉17回忌の大祭の日になっていたため、且元は両法要を8月3日とし、早天(早朝)に常胤法親王を開眼、堂法要の導師を覚深法親王とし、終日天台宗僧侶を上座としました。

豊臣家の息のかかった皇族と徳川家の息のかかった皇族がそれぞれ存在し、豊臣の影響を排除したい徳川と朝廷の皇族同士の主導権争い、天台宗・真言宗の宗派対立を巻き込みながら、問題は複雑化してゆきます。
この問題に対し家康は当初興味がなかったと言われています。
私は「疑問だなぁ」と思います。豊臣秀吉の命日について興味が無いわけないでしょう。
むしろ、色々な作戦を練っていたと考えるべきです。「アドリブ」はあったかもしれませんが。
「台本・ストーリー」は書かれていたのではないのか。
問題が表面化するのは7月末ですが、すでに4月頃から動き出しているように見えます。

慶長19年(1614年)7月末、板倉勝重から家康への報告により、鐘銘、棟札、座席などに疑惑がかけられる方広寺鐘銘事件が起こります。
以心崇伝と本多正純を中心に調査が行われ、板倉勝重により大仏開眼及び供養は延期が決定されます。

家康は鐘の銘文に問題があること、棟上が吉日ではないことを問題にしました。
「国家安康」「君臣豊楽」という文章が家康を呪うものだということです。

銘文を家康の側近たちが非難したため、片桐且元は弁明のために駿府へ向かいました。
豊臣は事態を重く見たらしく、且元より遅れて、淀の方の側近で大坂城の奥向きを仕切る大蔵卿局(大野治長の母)と正栄尼(渡辺糺の母)も使者として派遣しています。
寧々(高台院)とも親交があった老女二人を加えた使者団には、銘文問題の弁明だけでなく、豊臣氏の総意として徳川幕府への親善と恭順の意志を伝える目的があったと考えられています。

家康は大蔵卿局と正栄尼を歓待してすぐに面会します。鐘銘のことも話題とはならず丁寧に扱われ「大御所様の機嫌は悪くないので、大坂で話し合いした上で、以降も徳川家と豊臣家の間に疎遠や不審の無いような対策を決め、江戸に盟約書を参じてもらいたい」などと伝えられ、送り返された後、且元と面会することになります。

一方で徳川は片桐且元には厳しい態度で臨み、駿府に引き留め、家康と会うことが出来ません。
且元は徳川側近の以心崇伝に対応を相談し、打開策を模索します。

ここで且元はおよそ1か月の間交渉をしていますが、同行した且元の家臣山本豊久は自らの日記に「互いにバケバケ騙し合い申し」などと記しているので、徳川側がつけた難癖に且元がのらりくらり対応していた様子がうかがえます。
一方豊臣側は正式な使者である且元がいるにもかかわらず、別の使者を派遣して家康に合わせてしまうという失態をしています。
家康と面会した後大蔵卿局と正栄尼は豊臣方に且元と違う報告をしてしまいます。
これによって且元が内通しているのではないかと疑念を持たれてしまうことに。

徳川家に譲歩の姿勢が無いと見て取った且元自身の手によるものか、裏で以心崇伝に言い含められたかは不明ですが、豊臣側に提案をしています。

1.「秀頼の駿府と江戸への参勤」
2.「淀殿を江戸詰め(人質)とする」
3.「秀頼が大坂城を出て他国に移る」

上記3つのうちどれかを早急に選ぶことを提案します。
しかし、豊臣家家臣団には賛同を得られずませんでした。
あげくに、淀殿側近の大野治房や渡辺糺といった者たちは家康との内通を疑うようになります。

慶長19年(1614年)9月23日、織田信雄より薄田兼相らを討手とする暗殺計画を知らされ屋敷に篭り守りを固めます。
且元は大阪を出て高野山に籠ると言い出します。
秀頼や木村重成などから調停の動きがあったものの、且元は大阪を出ると聞きません。
これには秀頼派の側近も怒り出し、秀頼からも不忠者を理由に改易が決まります。
そこで蔵米や金などの勘定の引継ぎを済ませると、10月1日に300程の雑兵を引き連れ、弟の貞隆や石川貞政らと共に大阪城を玉造門より退去しました。
且元は貞隆の茨城城へ入り、勝重に援兵を要請します。

使者である且元が改易され屋敷が打ち壊されたということは徳川に伝わります。
交渉の使者を追放するのは謀反を起こすつもりだと思われても仕方ががありませんでした。

これにより、家康は且元の追放を口実に豊臣秀頼討伐の命令を出しました。
これらは家康の巧妙な作戦と考えられています。
且元が駿府へ向かう時すでに、戦の準備を始めていたという説もあります。
開戦を前に恭順派を排除しようとする動きがあったと見るのが正しいのか。
結果的に誘導された形で、大坂の陣が始まります。

大坂の陣において

慶長19年(1614年)10月10日、且元は土佐国へ大阪へのコメの回送をき禁じます。
慶長19年(1614年)10月12日には家臣の多羅尾半左衛門を300の兵で救援に向かったがすでに遅く、後藤又兵衛の私兵に撃退されて半左衛門も戦死する。海路を進もうと尼崎を目指すが上手くいかずに逃げ帰ることに。

その後は徳川方に加わり、徳川方の上陸と集結を積極的に支援します。

慶長19年(1614年)10月23日、家康が二条城に到着し、軍議に加わって先鋒を命じられます。
慶長19年(1614年)11月1日には小豆島周辺3ヵ国に物資の回送と大阪城の経済封鎖を命じ、3日には絵図の制作にあたり、5日には今井宗薫ら堺衆の奮戦を賞賛するなど徳川方に厚い全面的な協力をしています。

徳川方は真田丸での敗戦により、兵量不足の問題などで戦況は思わしくありませんでした。

慶長19年(1614年)12月16日戦況を打開しようと、ヨーロッパから取り寄せた大砲など北側だけで100門以上の大筒や石火矢をならべ、攻撃を開始しました。且元はこれに数十人を率いてこれに加わり、備前島から本丸の淀殿のちかくへ砲撃などを行いました。
この戦果が大坂方を講和の席に着かせる一つの契機になりました。

慶長20年(1615年)1月に隠居を願い出たが許されず、竜田や伏見などに転居の後、4月は駿府に屋敷が与えられました。
江戸への拝謁の途上で夏の陣が起こります。

慶長20年(1615年)5月6日午後、且元は道明寺に到着。7日早朝、久宝寺で将軍徳川秀忠の軍勢の弟・貞隆の体に合流し、軍艦石川貞政、牧田弘定ら諸将と会談しました。
且元・貞隆隊は岡山口への布陣を命じられています。

大阪城の落城後、大野治長が秀頼や淀殿が山里丸にいることを、彼らの助命嘆願の依頼と共に且元に知らせてきました。
それをいち早く秀忠に通報しましたが、助命は叶いませんでした。これにより豊臣氏は滅亡しました。

且元は、大阪城が落城し、豊臣氏が滅亡したのを見届けた後、前年から患っていた肺病で亡くなっています。
亡くなったのは京屋敷にて、大阪夏の陣から20日ほどした、慶長20年(1615年)5月28日です。享年60歳でした。

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片桐且元、裏切り者と呼ばれて。ドラマ真田丸の重要人物。家康に翻弄され忠臣になれず。

裏切り者扱いされることの多い且元ですが、評価は難しいですね。裏切り者と言われても仕方がないところもありますし。
自分から徳川に近づいた様に見えます。あげく、家康の狸おやじの餌食に。
天下分け目の関ヶ原と言われますが、豊臣の文官、武官の争いという背景もあり、文官だから、腹黒いみたいな評価が付きがちです。
実際には秀吉が信頼した人物が検地や兵站を担当することが多く、結果、文官になることが多かったような気がします。
西軍の方が相手を信頼するタイプの人物が多い気がします。徳川方は古参以外は好き嫌いと利害でつながっているわけで・・・
西軍が勝っていたらまた違う世の中になっていたのでしょうか。
すこしみてみたかったですね。

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